土井修爾

土井 修爾
個人情報
国籍日本
生誕 (1909-10-01) 1909年10月1日
大日本帝国、広島県
死去1938年7月7日(1938-07-07)(28歳没)
大日本帝国、広島県広島市
スポーツ
競技水球

土井 修爾(どい しゅうじ、1909年10月1日 - 1938年7月7日[1])は、日本の水球選手である。1932年に開催された夏季オリンピック男子トーナメントに出場した。日中戦争中は陸軍に士官として召集されていたが、日本国内での訓練中の負傷がもとで病死(戦病死)した。

経歴

広島県広島市出身[1][2]。父の土井與一は弁護士であった[3][4]広島市立袋町小学校[4]、県立広島第二中学校(現在の広島県立広島観音高等学校[2][4]を経て、早稲田大学法学部に学ぶ[2][4]

早稲田大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場[2][4]。水球には4か国(ドイツ、アメリカ、ハンガリー、日本)が出場した[2]。初出場の日本は国内の優秀選手を送り出したが、全敗を喫した[2]

大学卒業後は弁護士を目指して法律を学ぶ[2][4]かたわら、日本水球連盟の幹事を務めた[2]。1937年4月、陸軍に少尉として応召[3][4]第5師団に配属[2][4]。中国戦線に派遣される予定であったが、訓練中に負傷し丹毒(細菌感染症)を発症[2]。1938年7月、広島陸軍病院で死去[2](戦病死[2][4]。最終所属・階級は歩兵第11連隊所属の中尉[1])。28歳没[2][4]

1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により、妻および父と母は広島で被爆死し[2][4]、郊外(現在の広島市安佐南区)に疎開していた娘2人が遺された[2]。オリンピック記念メダルなどの記念品は娘2人の疎開先に移されていたために消失を免れ[4]、2020年に長女から母校旧制広島二中の同窓会(芸陽観音同窓会)に寄贈された[3][4]

「戦没オリンピアン」を調査している曾根幹子によれば、2021年現在38人が確認されている日本の戦没オリンピアンの中で、最も早くに亡くなった人物である[3][4]

脚注

  1. ^ a b c 曾根 2020, 9-10頁.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o “戦没オリンピアンー「必ず勝つ」戦病死した「明朗スポーツマン」 残された家族の悲劇”. 神戸新聞. (2021年8月15日). https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou1/202108/0014593284.shtml 2021年8月17日閲覧。 
  3. ^ a b c d “戦没五輪選手 伝える非戦 32年大会出場 広島出身の土井修爾さん 母校同窓会に遺品寄贈へ”. 中国新聞. (2020年4月6日). http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=96907 2021年8月17日閲覧。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n “戦没五輪選手の遺品を母校へ 記念メダルやアルバム 旧制広島二中 現在の観音高の同窓会に”. 中国新聞. (2020年11月12日). http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=102016 2021年8月17日閲覧。 

関連文献

  • 曾根幹子「「戦没オリンピアン」をめぐる調査と課題 ―広島県出身選手を事例に―」『広島市公文書館紀要』第32号、2020年、1-13頁。 
    • 表1 日本人戦没オリンピアン(2020年1月末日現在)(pp.9-10)

外部リンク

  • Shuji Doi - Olympedia(英語)